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合一会合唱団宣伝最終号 投稿者:石田事務局長 投稿日:2019/02/02(Sat) 05:27 No.1578

モーツァルの妻のコンスタンツェ(1762-1842)ですが、根拠もなしに悪妻とか無能な人間とか言われ、モーツァルトが存命中は目立たない存在でした。しかし、モーツァルトが亡くなってからの活躍は凄いものです。

彼女はモーツァルトの死にショックを受けて憔悴しきっていたが、すぐに残された夫の膨大な借金を返すべく行動を開始した。

皇帝レオポルド二世に遺族年金の支給を申請し夫の年棒の三分の一に当たる金が1年間支給されることになった。

夫の友人や後援者の力を借りて夫の追悼演奏会や自分と子供たちのための演奏会を催して収益を上げ、

プロイセン王に夫の作品の楽譜を売るなどして瞬く間に借金を返済しました。


画像は1762年女帝マリーア・テレージアから下賜された大礼服を着た6歳のモーツァルト。

合一会合唱団宣伝最終号 - 石田事務局長   2019/02/02(Sat) 05:32 No.1579
≪モツレク完成の舞台裏≫

何よりコンスタンツェの功績はレクイエムを完成させたことです。モーツァルトはレクイエムを完成できずに亡くなりました。

当時の事情を説明すればレクイエムを完成させないと依頼主のヴァルゼック伯爵から完成時の報酬を受け取れません。

借金を返すためにはこの報酬が欲しい。そこで彼女は色々と手を尽くし、結局はモーツァルトの「弟子」のジュースマイアーに完成させてもらった。

本当のところジュースマイアーはモーツァルトの弟子ではなく、彼を補佐して彼のオペラを浄書する仕事などをしていた。

それでもコンスタンツェはジュースマイアーのことをモーツァルトの「弟子」と言いつくろって、未完のレクイエム補筆の正当性を強調した。

これがモツレクが完成された舞台裏ですが、このようにしてコンスタンツェはヴァルゼック伯爵から残りの報酬を受け取った。

29歳で未亡人となったコンスタンツェは30台半ばで内縁の結婚をしている。

相手はデンマークの外交官で、彼は二人の連れ子の父親代わりになって優しく接してくれていた。その後彼女は80歳で世を去っている。


写真はモーツァルトの葬儀が行われたシュテファン大聖堂の内部。

合一会合唱団宣伝最終号 - 石田事務局長   2019/02/02(Sat) 05:43 No.1580
最後にあまり知られていないモーツァルトの子供たちのことについてです。

モーツァルト夫妻には6人の子供が出来ましたがそのうち4人までが一年足らずで死んでいます。

生き延びた2人はともに息子で、第二子でモーツァルト28歳で生まれたカール・トーマス(1784-1858)、

モーツァルトの亡くなった年に生まれた末子フランツ・クサバー・ヴォルフガンク(1791-1844)。

トーマスは音楽教育は受けたが音楽家の道をあきらめた。1810年にミラノの役人になり、同地で一生を終えている。

末の子は早くから楽才を示して「モーツァルト2世」で売り出したが、さほど成功はせず音楽家として地味な生涯を送った。

この二人の子はいずれも子孫を残さなかったので、モーツァルトの直系の血はこの代で途絶えてしまった。

1841年にモーツァルト没後50周年を記念してザルツブルグに彼の記念像が建立された時に二人の息子も駆けつけてにぎやかな祝典となっていた。


写真はザルツブルグのモーツァルト像。

合一会合唱団宣伝最終号 - 石田事務局長   2019/02/02(Sat) 05:52 No.1581
今回で合一会合唱団宣伝の連載は終了です。シューベルトのお話まで進めず残念と思っております。

いよいよ来週2月10日(日)は合唱団練習場での第1回練習日です。13時から始まります。

色々と準備も整っております。現在参加登録者は44名となっております。

また報告は掲載させていただきます。
合一会合唱団宣伝第11号 投稿者:石田事務局長 投稿日:2019/01/27(Sun) 18:01 No.1576

モーツァルトの妻についてのお話に戻ります。

モーツァルトは35歳で亡くなる年の1791年5月にウィーン近郊バーデンの学校教師で聖歌隊指揮者のアントン・シュトルに下記内容の手紙を出しています。

「最愛のシュトル!─(略)─ 僕の女房のために小さな住居をどうぞ予約していただきたいのです。彼女には二部屋あれば充分です。

でも少なくとも必要な条件は、それが一階にあるということです。至急御返事とお知らせをくださるようお願いします。」

ウィーン近郊バーデンは昔からの温泉保養地で、当時は貴族階級が利用するような高級な保養地であった。

その時モーツァルトの妻は身ごもっており足の病気も抱えていた。それでモーツァルトは彼女を保養地にやることにした。

ただし、妊婦であり足も悪いので「一階」の住居をモーツァルトは要望している。まさに愛妻家モーツァルトならではの手紙でありましょう。

(写真は妻コンスタンツェの肖像画)

合一会合唱団宣伝第11号 - 石田事務局長   2019/01/27(Sun) 18:05 No.1577
そしてモーツァルトはシュトルにアヴェ・ベルム・コルプスを捧げた。(作曲時期: 1791年6月17日)。

シュトルはモーツァルトから贈られた「アベベルムコルプス」の自筆譜を持っていた。

このように“アヴェ・ヴェルム・コルプス”が作曲されたのはモーツァルトが愛妻家であったことと大いに関連があったのでした。

(写真はバーデンの公園)

モーツァルトに関する誤情報 投稿者:石田事務局長 投稿日:2019/01/20(Sun) 05:48 No.1572

ちょっとここでモーツァルに関する誤った情報をただしておきます。

「モーツァルトの晩年は人気を失い、作品も難解という理由で演奏されなくなり、収入は激減し

妻の療養費などで借金を重ね、世間から理解されず貧困のうちに35歳に若さで亡くなりました」

というのがモーツァルトの晩年のイメージでしたが、近年の研究ではこれらは見直されてきています(西川尚生著『モーツァルト』2005年)。

晩年のモーツァルトがプフベルクという人に出した手紙が21通も残されています。そのほとんどが借金の申込です。

モーツァルトが亡くなった時、膨大な借金がその家族に残されました。

それでは晩年のモーツァルトは多額の借金をするくらいだから貧困な暮らしをしていたのでしょうか?

(写真はモーツァルトの故郷ザルツブルグの夜景)

モーツァルトに関する誤情報 - 石田事務局長   2019/01/20(Sun) 05:56 No.1573
1791年と言えばモーツァルトの亡くなった年ですが、その年の6月12日付のモーツァルトから転地療養中の妻への手紙に

「一通の手紙を書いて、某の父親のもとへ女中をやって届けさせた。」とあるので、モーツァルト家では女中を雇っていたことが判ります。

実はモーツァルトが25歳から亡くなる35歳までのウィーン在住時代、彼はかなりの高額所得者でした。

確かに30歳頃から収入は落ちていますが、やはり所得は多かったのです。

写真はウィーンのモーツァルト・ハウス。彼は28歳から31歳まで、ここに住みました。 住居は2階で6つの部屋とキッチンからなる豪華なものでした。

さすがに収入が減ってきたので31歳でこの高級住居は引き払い、家賃のずっと安い郊外の住居に住むようになりました。

確かに住居では生活の質を下げていますが、住居以外の点では生活水準を落とそうとした形跡がありません。

ある程度収入が減ったのに貴族的生活から離れられず、そのために多額の借金を重ねていたのが実情だったと思われます。

モーツァルトに関する誤情報 - 石田事務局長   2019/01/20(Sun) 05:58 No.1574
モーツァルト死後の遺産目録には高価な家具、高級な衣装、ビリヤード台、食器、書籍など高級品が並んでいました。

写真は死後28年後に描かれた肖像画です。

モーツァルは死ぬまでこのような高価な衣服を着て、借金まみれになりながらも貴族的生活をしていたのでしょう。

この後、モーツァルトの家族のことも書きますが、それを読まれても晩年のモーツァルトは豪華な生活をしていたことが分かります。

晩年のあの天上的な名曲の数々はそのような貴族的生活の中でこそ生まれたものではないでしょうか。

モーツァルトに関する誤情報 - 石田事務局長   2019/01/20(Sun) 06:27 No.1575
モーツァルトが30歳代になってから作品が難解だという批評が出てきましたが、当時彼のオペラは各地で上演回数を伸ばしていました。

楽譜出版社もモーツァルトに対する評価は高く、彼の晩年まで彼の曲を高価で買い取っていました。

そして1791年12月5日35歳でモーツァルが息を引き取ると、彼の死はヨーロッパ中に伝えられ、各地の新聞にこの偉大な音楽家の死を報じる記事が掲載されました。

このようにモーツァルは晩年に至るまで当時の社会でそれなりに高い評価を得ていたことは間違いありません。

(写真はウィーンの象徴ともいえるシュテファン大聖堂。モーツァルトはここで結婚式を挙げ、彼の葬儀もここで行われました)

合一会合唱団宣伝第10号 投稿者:石田事務局長 投稿日:2019/01/12(Sat) 20:52 No.1568

今回からはモーツァルト(1756-1791)の解説です。主に彼の家族のことを書こうと思っております。

知らない方の方が多いかもしれませんが、モーツァルトは大変な愛妻家でした。

合一会合唱団の課題曲である “アヴェ・ヴェルム・コルプス” も彼が愛妻家であったことと関連があるのです。

写真はウィーン王宮庭園にあるモーツァルト像

合一会合唱団宣伝第10号 - 石田事務局長   2019/01/12(Sat) 20:57 No.1569
モーツァルトがその妻コンスタンツェを愛していたということは彼の書簡から分かります。

(京都市立図書館にある『モーツァルト書簡全集6巻』を参照しました)

ウィーンにいた26歳のモーツァルトは、結婚前年1781年にザルツブルグの父親に下記のような結婚願望の手紙を書いています。

「僕の気質はもともと乱痴気騒ぎに明け暮れるよりも静かな家庭的雰囲気を求める性質です。

幼いころから下着や服など、身の回りのものに気を配れないので、妻ほど必要なものはないです。

僕の愛の対象はヴェーバー家の娘、コンスタンツェです。

美人ではないですが、およそ彼女の美しさはその小さな黒い両目とすらりとした体つきにあります。

機知はありませんが、妻として、母親としての務めを果たせるだけの常識は十分に備えています。彼女に浪費壁などありません。

家計も心得ているし、世にも優しい心を持っています。僕がこれ以上の良い妻を望めるでしょうか?」

上記は、現代日本の普通の青年がこのような文章を父親宛に書いたとしても何らおかしくないような内容です。

このように神童モーツァルトの結婚観は我々現代日本人でも理解できるようなものだったようです。


写真はモーツァルトが生まれ育ったザルツブルグの風景。

合一会合唱団宣伝第10号 - 石田事務局長   2019/01/12(Sat) 20:59 No.1570
結婚後7年経ってもモーツァルトの妻への愛は変わらず、旅先から妻宛の二通の手紙を紹介します。共に1789年モーツァルト33歳です。

【旅先ドレスデンより、ウィーンの妻宛 1789年4月16日夜11時半】

最愛、最上の奥さん!─(略)─オペラがはねた後、僕らは家へ戻った。そして今、僕にとって最も幸せな瞬間がやって来た。

僕はあんなにも長いこと待ち焦がれた、最愛!最上!の君からの手紙を見つけたんだ! 

僕はすぐに有頂天になり自分の部屋に入り,封を開ける前に、手紙に数えきれないほどのキスを浴びせた。

それからそれを読んだというより、むさぼりつくした。僕は長いこと自分の部屋にいた。何度読んでも、何度キスをしてもし足りなかったからだ。

─(略)─僕は毎晩ベッドに入る前に、たっぷり30分は君の肖像画と話をしていることを考えてほしい。そして起きる時も同じようにしている。

きみに1095060437082回キスして、抱きしめる(これで発音練習が出来るね)いつまでも。

きみのこの上なく誠実な夫で親友のW・A・モーツァルト

×   ×   ×   ×   ×

≪註≫少し解説しますと、モーツァルトの奥さんは「筆まめ」な人ではなく、モーツァルトは手紙でしばしば自分に手紙を書いてほしいと妻に要望していました。

それで旅先にめったに来ない妻からの手紙が来たので大変に喜んだという次第です。

写真はこれもザルツブルグの風景

合一会合唱団宣伝第10号 - 石田事務局長   2019/01/12(Sat) 21:06 No.1571
【旅先ベルリンよりよりウィーンの妻宛 1789年5月19日】

最愛、最上のいとしい奥さん!─(略)─

27日までには何が何でも発つよ。やっと君の傍に戻れるのが、とても嬉しい。愛しい人よ!

でも、帰ったら真っ先に君の髪をひっつかんでやるから。僕が君を忘れたなんて、たとえ想像だけにせよ、いったいどうして考えられるのだろうか?

そんなこと想像した罰として、帰った晩すぐに、きみの可愛い、キスをしたくなるようなお尻を手ひどくペンペンしてやるから。

それだけは覚悟しておきたまえ。アデュー

いつまでもきみの 唯一の友であり 心から愛する夫 W・A・モーツァルト

写真はザルツブルグの観光名所ミラベル宮殿。映画サウンド・オブ・ミュージックにも出てきました。

【次回に続く】

合一会合唱団の宣伝第9号 投稿者:石田事務局長 投稿日:2019/01/06(Sun) 20:34 No.1565

前回の書込みに続いてバッハ(1685 - 1750)の息子たちについてです。4番目の息子から後妻の子となります。

≪バッハの息子たち 4番目ハインリッヒ、5番目フリードリヒ≫

4番目の息子は音楽的才能があったことはバッハも認めていましたが、成長と共に知的障害が明らかになりました。

バッハ死亡時には26歳で、バッハはこの子のことを気にして亡くなったことでしょう。バッハ死後は身内に引き取られ39歳で死去。


5番目の息子については、バッハは死の前年にビュッケブルクの宮廷に推薦状を書き、当時18歳の息子を就職させました。

この息子のみが宮廷音楽家としての人生を全うしました。


写真は聖トーマス教会の主祭壇前に眠るバッハのお墓です。キリストの像と向かい合うように葬られています。

合一会合唱団の宣伝第9号 - 石田事務局長   2019/01/06(Sun) 20:43 No.1566
≪6番目クリスティアン≫

6番目・一番下の息子は写真のヨハン・クリスティアン・バッハ(1735−82)。彼は15歳で父バッハを亡くしています。

その後、若くしてイタリア留学してからイギリスに渡る。彼がロンドンに住んでいた時にロンドン訪問中の8歳のモーツァルト少年と仲良くなる。

モーツァルトは彼から作曲の影響を受けたと言われている。


バッハの娘ですが成人したのは4人だが、結婚したのは1人だけです。

そんな事情でバッハには知的障害の息子をはじめ、難儀な息子たちに未婚の娘たちと、結局子供たちのことでは苦労が絶えなかったことでしょう。

気になるのは息子の就職に構いすぎですね。それから思うに何かと息子たちに干渉しがちなうるさい親父だったのではないかなと思います。

結局、生前に国際的名声を得たのは末っ子のクリスティアンのみで、皮肉なことに彼は父親が死んでから自分で進路を決めて成功しています。

合一会合唱団の宣伝第9号 - 石田事務局長   2019/01/06(Sun) 21:18 No.1567
バッハが38歳から65歳で亡くなるまで住み続けたライプツィヒは旧東ドイツではベルリンに次ぐ第二の都市でした。

そしてここは音楽の街としても有名で、かの瀧廉太郎も音楽留学生としてこの地で過ごしました。

瀧は「花」や「荒城の月」を作曲後1901年に欧州留学し、ライプツィッヒ音楽院に入学しました。

その5か月後肺結核を発病し帰国せざるを得なくなります。そして大分の自宅で静養するも1903年に23歳で亡くなります。

写真はライプツィッヒの街角にある瀧廉太郎の記念碑です。

これは瀧の没後100周年を記念し建碑され、2003年6月27日に除幕されました。


バッハのお話は今回で終わりです。有難うございました。

合一会合唱団の宣伝第8号 投稿者:石田事務局長 投稿日:2019/01/03(Thu) 07:29 No.1560

≪妻の急死≫

良き家庭人でもあったバッハ(1685 - 1750)、彼とその家族についてお話し申し上げます。

バッハは22歳で又従妹のマリア・バルバラと結婚し五男二女をもうけるも3人は夭折している。

そしてバッハがケーテンで勤めていた35歳1720年のことである。領主に随行して旅に出て2か月後に帰宅したら、元気に送り出してくれた妻が急死していたことを知らされる。

12歳の娘を頭に3人の息子、計4人の子供を抱え残されたバッハは途方に暮れたに違いありません。

写真はケーテン市庁舎

合一会合唱団の宣伝第8号 - 石田事務局長   2019/01/03(Thu) 07:31 No.1561
≪16歳若い部下と再婚≫

妻の死の翌年、36歳でバッハは20歳のアンナ・マグダレーナ(1701−60)と再婚します。

彼女はケーテンの宮廷で歌っていたソプラノ歌手でしたから、宮廷楽長だったバッハの部下にあたるでしょう。

彼女は4人も子供のいる16歳年上の上司である宮廷楽長からプロポーズされたわけです。

そりゃ断りにくい部下という立場であったとは思いますが、バッハに4人もの子供もいるので半端な覚悟で結婚したのではないでしょう。

そして彼女は家事以外にもバッハの楽譜の整理をする仕事も受け持ちました。「糟糠の妻」として後世に知られています。

写真はケーテン城

合一会合唱団の宣伝第8号 - 石田事務局長   2019/01/03(Thu) 08:07 No.1562
≪大家族のために稼ぎ続けたバッハ≫

バッハは生涯に2度結婚し、十一男九女の合計20人の子供をもうけたが、10人は夭逝し、成長したのは男子6人と女子4人の10人でした。

実はバッハはこの大家族を養うために、特に38歳でライプツィヒへ転職してからは正業以外に音楽関係の色んな「アルバイト」をして働きまくりました。

冠婚葬祭などの音楽に対する謝礼、オルガン鑑定、楽器の管理……等々の副業からの収入が正業の聖トーマス教会からの給与の何倍もあったのです。

かようにバッハは38歳から亡くなる65歳まで勤めていたライプツィヒでは仕事に忙殺されていました。

そして今日演奏されているバッハ作品の大半はライプツィヒで生まれたものです。『マタイ受難曲』もその中の1曲です。

写真はバッハが勤めていたライプツィヒの聖トーマス教会。

合一会合唱団の宣伝第8号 - 石田事務局長   2019/01/03(Thu) 09:17 No.1563
≪バッハの息子たち 長男フリーデマン≫

バッハは息子たちの教育や就職に積極的に関わりました。バッハの6人の息子たちについて記します。父親としてのバッハの苦労が分かります。

バッハのような立派な人でも、息子たちについては思い通りに行かないのものと分かります。人生は難しいものです。

長男は一番楽才に恵まれていた。ドレスデンの教会オルガニストになりましたが、その就職のためにバッハは当地の市議会や教会役員に選願書を書いた。

その後別の教会オルガニストに転職する時もバッハと関係の深い教会に移っています。しかし長男はそこもうまくいかず突然辞職。

高名な父のプレッシャーもあったのかとりわけ長男の後半生では奇行が目立った。この長男はその後、死ぬまで定職に就かず。74歳で亡くなる。

写真は聖トーマス教会のバッハ像

合一会合唱団の宣伝第8号 - 石田事務局長   2019/01/03(Thu) 09:21 No.1564
≪バッハの息子たち 2番目エマヌエル、3番目ベルンハルト≫

2番目は優等生。息子たちの中で一番父親に忠実で、家族への面倒見もよく、父の伝記を書き、その遺産を管理し、そして父の作品を伝える役割を担った。

音楽家としても優秀で順調に出世して、父と同様幅広いジャンルの曲を書いて成功した。74歳で死去。


三番目の息子はバッハ曰く「不肖の息子」。父親の世話で2度教会オルガニストに就職するもどちらも1年ほどで辞める。その後負債を残したまま行方不明に。

結局この男は24歳の若さで親戚の家で世を去る。

写真は聖トーマス教会のステンドグラス。

続きは次回に。

合一会合唱団の宣伝第7号 投稿者:石田事務局長 投稿日:2019/01/01(Tue) 07:30 No.1555

皆さん明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

今年は合一会合唱団の発足の年で、2月10日(日)は第1回練習日です。

昨年末現在で参加申込者38名、それと未定な方が3名です。これから申込される方はお早めにお願いいたします。

×    ×    ×    ×    ×

さて、合一会合唱団の宣伝としてバッハ紹介の続きを再開しましょう。バッハについて雑学的な興味を持っていただけたらと思っております。

なおこの企画では美しいドイツの風景写真をたくさん取り入れて、ドイツ名所観光案内みたいな感じで行くつもりです、ヨロシク。

写真はバッハ(1685 - 1750)が38歳から65歳で亡くなるまで住んで仕事をしていた現在のライプツィヒの街並みです。

ライプツィヒは旧東ドイツ南部のザクセン州にある都市です。

合一会合唱団の宣伝第7号 - 石田事務局長   2019/01/01(Tue) 07:32 No.1556
≪給費生となる≫

10歳で薄給オルガニストの長兄に引き取られた孤児のバッハ少年は、物乞いのような音楽活動をして暮らしていました。

兄は経済的には豊かでないのでバッハは給費学生になって学業を続ける道を選びました。

ドイツ北部リューネブルグの聖ミカエル教会付属学校の給費学生に15歳で応募して入学します。そこで本格的な音楽修行を積みました。

写真は聖ミカエル教会。教会のあるリューネブルグはハンブルグ南東50キロにあります。

合一会合唱団の宣伝第7号 - 石田事務局長   2019/01/01(Tue) 07:38 No.1557
このようにしてバッハは貧しいながらも学業を修めました。

ただ大学にまで進学できませんでしたので、就職してから大卒でない学歴のためで色々と不利なことがあり、悔しい思いをしています。

そこのところは今の日本社会と似ているといえそうですね。

こちらの写真は上で紹介した聖ミカエル教会の空撮写真ですが、街並みが整然と統一されていて美しいですね。

合一会合唱団の宣伝第7号 - 石田事務局長   2019/01/01(Tue) 08:01 No.1558
≪初めての職はパシリの音楽家≫

1703年18歳で初めてヴァイマルにて就職する、職名は「宮廷楽師 兼 従僕」。

宮廷音楽家と言えばカッコイイが、使い走りもさせられる下っ端の音楽家からバッハはスタートしました。

その後バッハはオルガニストとしていくつかの職場を渡り歩きつつ地位も上がっていき、38歳の時にケーテンからライプツィヒに転勤。

そこで聖トマス学校のカントル(聖歌隊指揮者)兼音楽監督に任命され、この地位に死ぬまでとどまりました。

写真はバッハが32歳からライプツィヒへ転職するまで宮廷楽長(宮廷音楽家の最高位)を務めていたケーテンの街角風景。

バッハ広場から延びる道の先にこの街のシンボル的な聖ヤコブ教会の2本の塔が見えます。ケーテンは旧東ドイツの中央南部の小都市。

合一会合唱団の宣伝第7号 - 石田事務局長   2019/01/01(Tue) 08:08 No.1559
≪良き家庭人だったバッハ≫

ここからは家庭人としてのバッハについて触れます。彼は家庭を大事にした人でした。バッハ家ではよく家庭音楽会も開いていました。

彼は22歳の時にミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガニストになりました。

その年に婚約していた又従妹のマリア・バルバラ(1684−1720)と結婚しました。彼女も音楽家の家系に生まれ、ともに末っ子で両親を亡くしていました。

写真は聖ブラジウス教会の礼拝堂。バッハはここで結婚式を挙げたのでしょうね。

所在地のミュールハウゼンとは旧東ドイツ南西部にあったチューリンゲン州の街。


良き家庭人としてのバッハの話は次回にて。

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