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合一会合唱団宣伝第10号 投稿者:石田事務局長 投稿日:2019/01/12(Sat) 20:52 No.1568

今回からはモーツァルト(1756-1791)の解説です。主に彼の家族のことを書こうと思っております。

知らない方の方が多いかもしれませんが、モーツァルトは大変な愛妻家でした。

合一会合唱団の課題曲である “アヴェ・ヴェルム・コルプス” も彼が愛妻家であったことと関連があるのです。

写真はウィーン王宮庭園にあるモーツァルト像

合一会合唱団宣伝第10号 - 石田事務局長   2019/01/12(Sat) 20:57 No.1569
モーツァルトがその妻コンスタンツェを愛していたということは彼の書簡から分かります。

(京都市立図書館にある『モーツァルト書簡全集6巻』を参照しました)

ウィーンにいた26歳のモーツァルトは、結婚前年1781年にザルツブルグの父親に下記のような結婚願望の手紙を書いています。

「僕の気質はもともと乱痴気騒ぎに明け暮れるよりも静かな家庭的雰囲気を求める性質です。

幼いころから下着や服など、身の回りのものに気を配れないので、妻ほど必要なものはないです。

僕の愛の対象はヴェーバー家の娘、コンスタンツェです。

美人ではないですが、およそ彼女の美しさはその小さな黒い両目とすらりとした体つきにあります。

機知はありませんが、妻として、母親としての務めを果たせるだけの常識は十分に備えています。彼女に浪費壁などありません。

家計も心得ているし、世にも優しい心を持っています。僕がこれ以上の良い妻を望めるでしょうか?」

上記は、現代日本の普通の青年がこのような文章を父親宛に書いたとしても何らおかしくないような内容です。

このように神童モーツァルトの結婚観は我々現代日本人でも理解できるようなものだったようです。


写真はモーツァルトが生まれ育ったザルツブルグの風景。

合一会合唱団宣伝第10号 - 石田事務局長   2019/01/12(Sat) 20:59 No.1570
結婚後7年経ってもモーツァルトの妻への愛は変わらず、旅先から妻宛の二通の手紙を紹介します。共に1789年モーツァルト33歳です。

【旅先ドレスデンより、ウィーンの妻宛 1789年4月16日夜11時半】

最愛、最上の奥さん!─(略)─オペラがはねた後、僕らは家へ戻った。そして今、僕にとって最も幸せな瞬間がやって来た。

僕はあんなにも長いこと待ち焦がれた、最愛!最上!の君からの手紙を見つけたんだ! 

僕はすぐに有頂天になり自分の部屋に入り,封を開ける前に、手紙に数えきれないほどのキスを浴びせた。

それからそれを読んだというより、むさぼりつくした。僕は長いこと自分の部屋にいた。何度読んでも、何度キスをしてもし足りなかったからだ。

─(略)─僕は毎晩ベッドに入る前に、たっぷり30分は君の肖像画と話をしていることを考えてほしい。そして起きる時も同じようにしている。

きみに1095060437082回キスして、抱きしめる(これで発音練習が出来るね)いつまでも。

きみのこの上なく誠実な夫で親友のW・A・モーツァルト

×   ×   ×   ×   ×

≪註≫少し解説しますと、モーツァルトの奥さんは「筆まめ」な人ではなく、モーツァルトは手紙でしばしば自分に手紙を書いてほしいと妻に要望していました。

それで旅先にめったに来ない妻からの手紙が来たので大変に喜んだという次第です。

写真はこれもザルツブルグの風景

合一会合唱団宣伝第10号 - 石田事務局長   2019/01/12(Sat) 21:06 No.1571
【旅先ベルリンよりよりウィーンの妻宛 1789年5月19日】

最愛、最上のいとしい奥さん!─(略)─

27日までには何が何でも発つよ。やっと君の傍に戻れるのが、とても嬉しい。愛しい人よ!

でも、帰ったら真っ先に君の髪をひっつかんでやるから。僕が君を忘れたなんて、たとえ想像だけにせよ、いったいどうして考えられるのだろうか?

そんなこと想像した罰として、帰った晩すぐに、きみの可愛い、キスをしたくなるようなお尻を手ひどくペンペンしてやるから。

それだけは覚悟しておきたまえ。アデュー

いつまでもきみの 唯一の友であり 心から愛する夫 W・A・モーツァルト

写真はザルツブルグの観光名所ミラベル宮殿。映画サウンド・オブ・ミュージックにも出てきました。

【次回に続く】

合一会合唱団の宣伝第9号 投稿者:石田事務局長 投稿日:2019/01/06(Sun) 20:34 No.1565

前回の書込みに続いてバッハ(1685 - 1750)の息子たちについてです。4番目の息子から後妻の子となります。

≪バッハの息子たち 4番目ハインリッヒ、5番目フリードリヒ≫

4番目の息子は音楽的才能があったことはバッハも認めていましたが、成長と共に知的障害が明らかになりました。

バッハ死亡時には26歳で、バッハはこの子のことを気にして亡くなったことでしょう。バッハ死後は身内に引き取られ39歳で死去。


5番目の息子については、バッハは死の前年にビュッケブルクの宮廷に推薦状を書き、当時18歳の息子を就職させました。

この息子のみが宮廷音楽家としての人生を全うしました。


写真は聖トーマス教会の主祭壇前に眠るバッハのお墓です。キリストの像と向かい合うように葬られています。

合一会合唱団の宣伝第9号 - 石田事務局長   2019/01/06(Sun) 20:43 No.1566
≪6番目クリスティアン≫

6番目・一番下の息子は写真のヨハン・クリスティアン・バッハ(1735−82)。彼は15歳で父バッハを亡くしています。

その後、若くしてイタリア留学してからイギリスに渡る。彼がロンドンに住んでいた時にロンドン訪問中の8歳のモーツァルト少年と仲良くなる。

モーツァルトは彼から作曲の影響を受けたと言われている。


バッハの娘ですが成人したのは4人だが、結婚したのは1人だけです。

そんな事情でバッハには知的障害の息子をはじめ、難儀な息子たちに未婚の娘たちと、結局子供たちのことでは苦労が絶えなかったことでしょう。

気になるのは息子の就職に構いすぎですね。それから思うに何かと息子たちに干渉しがちなうるさい親父だったのではないかなと思います。

結局、生前に国際的名声を得たのは末っ子のクリスティアンのみで、皮肉なことに彼は父親が死んでから自分で進路を決めて成功しています。

合一会合唱団の宣伝第9号 - 石田事務局長   2019/01/06(Sun) 21:18 No.1567
バッハが38歳から65歳で亡くなるまで住み続けたライプツィヒは旧東ドイツではベルリンに次ぐ第二の都市でした。

そしてここは音楽の街としても有名で、かの瀧廉太郎も音楽留学生としてこの地で過ごしました。

瀧は「花」や「荒城の月」を作曲後1901年に欧州留学し、ライプツィッヒ音楽院に入学しました。

その5か月後肺結核を発病し帰国せざるを得なくなります。そして大分の自宅で静養するも1903年に23歳で亡くなります。

写真はライプツィッヒの街角にある瀧廉太郎の記念碑です。

これは瀧の没後100周年を記念し建碑され、2003年6月27日に除幕されました。


バッハのお話は今回で終わりです。有難うございました。

合一会合唱団の宣伝第8号 投稿者:石田事務局長 投稿日:2019/01/03(Thu) 07:29 No.1560

≪妻の急死≫

良き家庭人でもあったバッハ(1685 - 1750)、彼とその家族についてお話し申し上げます。

バッハは22歳で又従妹のマリア・バルバラと結婚し五男二女をもうけるも3人は夭折している。

そしてバッハがケーテンで勤めていた35歳1720年のことである。領主に随行して旅に出て2か月後に帰宅したら、元気に送り出してくれた妻が急死していたことを知らされる。

12歳の娘を頭に3人の息子、計4人の子供を抱え残されたバッハは途方に暮れたに違いありません。

写真はケーテン市庁舎

合一会合唱団の宣伝第8号 - 石田事務局長   2019/01/03(Thu) 07:31 No.1561
≪16歳若い部下と再婚≫

妻の死の翌年、36歳でバッハは20歳のアンナ・マグダレーナ(1701−60)と再婚します。

彼女はケーテンの宮廷で歌っていたソプラノ歌手でしたから、宮廷楽長だったバッハの部下にあたるでしょう。

彼女は4人も子供のいる16歳年上の上司である宮廷楽長からプロポーズされたわけです。

そりゃ断りにくい部下という立場であったとは思いますが、バッハに4人もの子供もいるので半端な覚悟で結婚したのではないでしょう。

そして彼女は家事以外にもバッハの楽譜の整理をする仕事も受け持ちました。「糟糠の妻」として後世に知られています。

写真はケーテン城

合一会合唱団の宣伝第8号 - 石田事務局長   2019/01/03(Thu) 08:07 No.1562
≪大家族のために稼ぎ続けたバッハ≫

バッハは生涯に2度結婚し、十一男九女の合計20人の子供をもうけたが、10人は夭逝し、成長したのは男子6人と女子4人の10人でした。

実はバッハはこの大家族を養うために、特に38歳でライプツィヒへ転職してからは正業以外に音楽関係の色んな「アルバイト」をして働きまくりました。

冠婚葬祭などの音楽に対する謝礼、オルガン鑑定、楽器の管理……等々の副業からの収入が正業の聖トーマス教会からの給与の何倍もあったのです。

かようにバッハは38歳から亡くなる65歳まで勤めていたライプツィヒでは仕事に忙殺されていました。

そして今日演奏されているバッハ作品の大半はライプツィヒで生まれたものです。『マタイ受難曲』もその中の1曲です。

写真はバッハが勤めていたライプツィヒの聖トーマス教会。

合一会合唱団の宣伝第8号 - 石田事務局長   2019/01/03(Thu) 09:17 No.1563
≪バッハの息子たち 長男フリーデマン≫

バッハは息子たちの教育や就職に積極的に関わりました。バッハの6人の息子たちについて記します。父親としてのバッハの苦労が分かります。

バッハのような立派な人でも、息子たちについては思い通りに行かないのものと分かります。人生は難しいものです。

長男は一番楽才に恵まれていた。ドレスデンの教会オルガニストになりましたが、その就職のためにバッハは当地の市議会や教会役員に選願書を書いた。

その後別の教会オルガニストに転職する時もバッハと関係の深い教会に移っています。しかし長男はそこもうまくいかず突然辞職。

高名な父のプレッシャーもあったのかとりわけ長男の後半生では奇行が目立った。この長男はその後、死ぬまで定職に就かず。74歳で亡くなる。

写真は聖トーマス教会のバッハ像

合一会合唱団の宣伝第8号 - 石田事務局長   2019/01/03(Thu) 09:21 No.1564
≪バッハの息子たち 2番目エマヌエル、3番目ベルンハルト≫

2番目は優等生。息子たちの中で一番父親に忠実で、家族への面倒見もよく、父の伝記を書き、その遺産を管理し、そして父の作品を伝える役割を担った。

音楽家としても優秀で順調に出世して、父と同様幅広いジャンルの曲を書いて成功した。74歳で死去。


三番目の息子はバッハ曰く「不肖の息子」。父親の世話で2度教会オルガニストに就職するもどちらも1年ほどで辞める。その後負債を残したまま行方不明に。

結局この男は24歳の若さで親戚の家で世を去る。

写真は聖トーマス教会のステンドグラス。

続きは次回に。

合一会合唱団の宣伝第7号 投稿者:石田事務局長 投稿日:2019/01/01(Tue) 07:30 No.1555

皆さん明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

今年は合一会合唱団の発足の年で、2月10日(日)は第1回練習日です。

昨年末現在で参加申込者38名、それと未定な方が3名です。これから申込される方はお早めにお願いいたします。

×    ×    ×    ×    ×

さて、合一会合唱団の宣伝としてバッハ紹介の続きを再開しましょう。バッハについて雑学的な興味を持っていただけたらと思っております。

なおこの企画では美しいドイツの風景写真をたくさん取り入れて、ドイツ名所観光案内みたいな感じで行くつもりです、ヨロシク。

写真はバッハ(1685 - 1750)が38歳から65歳で亡くなるまで住んで仕事をしていた現在のライプツィヒの街並みです。

ライプツィヒは旧東ドイツ南部のザクセン州にある都市です。

合一会合唱団の宣伝第7号 - 石田事務局長   2019/01/01(Tue) 07:32 No.1556
≪給費生となる≫

10歳で薄給オルガニストの長兄に引き取られた孤児のバッハ少年は、物乞いのような音楽活動をして暮らしていました。

兄は経済的には豊かでないのでバッハは給費学生になって学業を続ける道を選びました。

ドイツ北部リューネブルグの聖ミカエル教会付属学校の給費学生に15歳で応募して入学します。そこで本格的な音楽修行を積みました。

写真は聖ミカエル教会。教会のあるリューネブルグはハンブルグ南東50キロにあります。

合一会合唱団の宣伝第7号 - 石田事務局長   2019/01/01(Tue) 07:38 No.1557
このようにしてバッハは貧しいながらも学業を修めました。

ただ大学にまで進学できませんでしたので、就職してから大卒でない学歴のためで色々と不利なことがあり、悔しい思いをしています。

そこのところは今の日本社会と似ているといえそうですね。

こちらの写真は上で紹介した聖ミカエル教会の空撮写真ですが、街並みが整然と統一されていて美しいですね。

合一会合唱団の宣伝第7号 - 石田事務局長   2019/01/01(Tue) 08:01 No.1558
≪初めての職はパシリの音楽家≫

1703年18歳で初めてヴァイマルにて就職する、職名は「宮廷楽師 兼 従僕」。

宮廷音楽家と言えばカッコイイが、使い走りもさせられる下っ端の音楽家からバッハはスタートしました。

その後バッハはオルガニストとしていくつかの職場を渡り歩きつつ地位も上がっていき、38歳の時にケーテンからライプツィヒに転勤。

そこで聖トマス学校のカントル(聖歌隊指揮者)兼音楽監督に任命され、この地位に死ぬまでとどまりました。

写真はバッハが32歳からライプツィヒへ転職するまで宮廷楽長(宮廷音楽家の最高位)を務めていたケーテンの街角風景。

バッハ広場から延びる道の先にこの街のシンボル的な聖ヤコブ教会の2本の塔が見えます。ケーテンは旧東ドイツの中央南部の小都市。

合一会合唱団の宣伝第7号 - 石田事務局長   2019/01/01(Tue) 08:08 No.1559
≪良き家庭人だったバッハ≫

ここからは家庭人としてのバッハについて触れます。彼は家庭を大事にした人でした。バッハ家ではよく家庭音楽会も開いていました。

彼は22歳の時にミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガニストになりました。

その年に婚約していた又従妹のマリア・バルバラ(1684−1720)と結婚しました。彼女も音楽家の家系に生まれ、ともに末っ子で両親を亡くしていました。

写真は聖ブラジウス教会の礼拝堂。バッハはここで結婚式を挙げたのでしょうね。

所在地のミュールハウゼンとは旧東ドイツ南西部にあったチューリンゲン州の街。


良き家庭人としてのバッハの話は次回にて。

合一会合唱団の宣伝第6号 投稿者:石田事務局長 投稿日:2018/12/30(Sun) 11:03 No.1551

合一会合唱団で選曲した宗教小品集にはバッハ、モーツァルト、シューベルトという3人の大作曲家の作品を選びました。

今回の企画はこの3人の紹介を順番にして行くことといたします。内容は気楽に読めるようなものを心がけてまいりますのでヨロシク。

合一会合唱団の宣伝第6号 - 石田事務局長   2018/12/30(Sun) 11:06 No.1552
≪本当はカツラだった肖像画≫

まずバッハ(1685-1750)です。有名な肖像写真をご覧になってください。本当にイカツイ顔ですね。

バッハの性格は 「一本気で言い出したら聞かない性分で、誰にでもいい顔をするような人間ではなかった」とされています。まさに肖像画はその雰囲気を伝えています。

豊かな髪の毛はカールしているようですが、これはカツラです。実は中世ヨーロッパでは カツラをかぶるのが正装とされていたんです。

ですから肖像画になる時も当然正装ですからカツラをかぶります。カールしたカツラは貴族のなかで人気で当時流行の最先端でした。

では本当の髪型はどうだったのかと言えば、バッハは髪の毛を剃ってカツラをかぶっていたとされています。

当時は髪を洗うという文化がなかったので髪をツルツルに剃ってしまった方が衛生的で病気になりにくいとされていたのです。

坊主頭とカールをしたカツラをかぶったのとでは、肖像画の雰囲気は全く異なったものとなっていたでしょうね。

合一会合唱団の宣伝第6号 - 石田事務局長   2018/12/30(Sun) 11:08 No.1553
≪音楽家の家系に生まれる≫

バッハは祖父の代からの音楽家の家系に生まれました。バッハの父はアイゼナハ(旧東ドイツの南西部)の町に勤める町楽師でした。

写真はバッハ生誕の地、アイゼナッハにあるバッハ像。その像の左側に「バッハの家」があり当時の楽器などを展示しています。

当時は音楽家が職人のように先祖代々受け継がれる職業だったのです。それでバッハは当然音楽家になる道を歩みました。しかしそれは平坦な道ではありませんでした。

合一会合唱団の宣伝第6号 - 石田事務局長   2018/12/30(Sun) 11:10 No.1554
≪10歳で孤児になり、音楽で物乞い≫

バッハは10歳の年に父親に死なれ、前年に母が死んでいるのでその時点で彼は孤児になってしまいました。

それでオールドルフという街で教会オルガニストをしている長兄に引き取られました。

写真は長兄が勤めていた聖ミヒャエル教会の塔です(第二次大戦の空襲で破壊され戦後再建されました)。

前年に結婚したばかりで就職したてでもあった長兄一家の生活は結構苦しかったはずです。

そのためでしょうかバッハは教会の聖歌隊に加わりました。貧しい階層の少年たちからなる聖歌隊は、施しを求めて街を回ったり、結婚式や葬式、宴会に出張して歌を歌いました。それは、物乞いに等しい仕事でした。

☆ 次回に続きます

合一会合唱団の宣伝第5号 投稿者:石田事務局長 投稿日:2018/12/23(Sun) 17:03 No.1547


現役の定演で中断していた合一会合唱団の宣伝を再開します。今回は音取り音源CD作製の話です。

個人練習用音取り音源CDは、私が作製担当しております。

使うソフト“KAWAI スコアメーカー9”で、これはオーケストラといった大規模編成の楽譜も作成できるソフトです。

そこに音取り音源としたい楽譜ソフトを入力すれば、それを変換して“ウィンドウズ・メディア・プレーヤー”にも登録できます。

御存じの通りそのメディアプレーヤーに登録しさえすれば、そこから自由にCDが作製できます。

合一会合唱団の宣伝第5号 - 石田事務局長   2018/12/23(Sun) 17:06 No.1548
例えばモーツァルト作曲「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を例にとって音取り音源作製の説明をいたします。

まず、スキャナーで楽譜を1ページずつ読み込んでいきます。

下の写真が読み込んだ楽譜の1ページ目を表示したもので、画面を下方へスクロールしていけば2頁目以降も表示できます。

スコアメーカーへ楽譜の入力の仕方ですが、スキャナーで読み込めばピアノ伴奏付混声四声の楽譜が簡単に登録できます。

下の画像のように取り込んだ四声合唱とピアノの合計6段の楽譜が画面表示されています。

この画面上の楽譜は自由に編集することが出来ます。ここではアルトパートの音取り音源を作製することとします。

それにはアルト以外の3パートの楽譜を抹消してしまえばよいわけです。

合一会合唱団の宣伝第5号 - 石田事務局長   2018/12/23(Sun) 17:12 No.1549
アルト以外の3声の音符を消したら画像の通り、アルトのみが残った楽譜が出来ました。

音符を消す作業は消す対象を選択してDeleteキーを使えば簡単に出来ることは皆さん御存じでしょう。

これによってピアノ伴奏付のアルトパートの音取り音源が出来ました。

合一会合唱団の宣伝第5号 - 石田事務局長   2018/12/23(Sun) 17:18 No.1550
あとは各パートの音色を何にするかを決めます。音色はパートごとに決められます。

各パートの音取り音源の音色は今まで使い慣れてきたポータホンの音色に近い「リードオルガン」のみとしておきました。

画像のようにたくさんの音色の選択肢から「リードオルガン」を選ぶわけです。

音色は数百種類あり、三味線や大正琴もあります。伴奏のピアノはもちろん「グランドピアノ」の音色です。

この楽譜ソフトをウィンドウズ・メディア・プレーヤーに登録してしまえば、あとはそこから音取り音源用CDを作成できます。

第61回定演の評価 続編 投稿者:石田事務局長 投稿日:2018/12/11(Tue) 06:33 No.1543

≪1ステ≫

#今回は団員数が今までで一番少ないということでしたが、聞いてみると決して細々とした感じでなく人数が少ない中でも迫力がある声量でした。

#パート間のバランスのために女声の中にはパート替えをしている人もいるし、色々と苦労は多かったのではないかと思います。

#2曲目が個人的には気に入っており、男声はもちろん、女声の声も落ち着いた、低めの声で、かっこよかったです。

#終曲は、明るい曲調と楽しそうに歌う姿にこちらも元気がもらえました。 


〔シャトルさんより指揮者について〕

体幹がしっかりしていたので(きゃしーのスポーツ経験が活きていますね)、打点のブレが少なく見えました。

去年は身体を揺らすことで楽しそうな感じを表現しようとしていたと思いますが、今年は曲の表情は腕で表現しようとしていて、これぞ指揮者と思いました。

始点が低いのが残念でしたが、去年より程よく脱力も出来ていて、成長しているなと感じました。

第61回定演の評価 続編 - 石田事務局長   2018/12/11(Tue) 06:38 No.1544
≪2ステ≫

#選曲がポピュラー曲ばかりでなくシューベルトの「野ばら」や「シュテンチェン」とクラシック曲もありポピュラー曲に弱い者でも楽しめた。

#ソロ(1年生ですかね?)が、みんな堂々としていて、頼もしかったです。

#4回生のべっちが、ピアノ全曲弾いていて、驚きました。シテンチェンが懐かしかったです。

#ほぼ全曲が外国語曲で難しそうなのに、すごく練習したんだろうなと思いました。

#様々な言語やジャンルの曲に挑戦し、1回生もソロを立派に歌っていたので意欲的に取り組んでいたのだなと思いました。

#歌詞パンフを見れば2ステの物語のあらすじが理解でき、また演奏曲目も分かるので有難かったです。ついでにソリスト名も書いてあげても良いのではないかと思いました。

#ジョン・デンバーの「カントリー・ロード」、もう50年近く前の曲になります。また「オーシャンゼリゼ」も同じ頃ヒットしました。私の青春時代の懐かしい曲をどうもありがとう。

第61回定演の評価 続編 - 石田事務局長   2018/12/11(Tue) 06:43 No.1545
≪3ステ≫

#特にこのステージでは人数が少ないのに声量が迫力あり驚きました。

#歌も手を叩くタイミングも、難しそうでしたが、ぴったり揃っていました。他のステージでもありましたが、3ステが特に一番上手で、きれいな歌声だったような気がします。

#ボディランゲージといったらいいのでしょうか?体を使って表現することも多かったですし視覚的に面白かったです。

#3曲目『骨』が 「 踊り狂うぜ 叫びまくるぜ ステップ踏むぜ と骨が笑う 」といった激しい内容の歌詞にあわせた作曲で、演奏も歌のみでなく身振り・手叩き・足踏み鳴らし‥‥とすごく印象に残りました。
また伊東先生もその指揮に応える団員達それに真利枝先生も一体となってこの前衛的な曲を表現しきっていて見事でした。

第61回定演の評価 続編 - 石田事務局長   2018/12/11(Tue) 06:49 No.1546
≪シャトルさんより女声の評価≫

中音域を柔らかく出せる女声が多い年だと感じたので、今年の曲集と相性が良かったような気がしました。

府大は「響きのある歌声」というのを理解した上で出せる女声が少ないです(私自身他団で覚えました)。出せない人の中にも、ときどき無意識に響きをキープして音を出せる人もいるのですが、全体を通して響きのある部分とない部分の差が少し気になりました。


≪シャトルさんより男声の評価≫

声分け(パート分け)と実際出しやすい音域が合っている人が多い印象を受けました(昔はなかなか合っていないことも多くて苦労した先輩もいらっしゃったと思います。)

苦しそうな声が聞こえず、伸びやかでいい声だなと思いました。また、声の方向性がかなりまとまっていて、人数以上に厚みが出ていました。

×   ×   ×   ×   ×

≪今後とも現役にご支援を≫

定演パンフの末尾には来年6月30日の同志社コールフリューゲルと大谷混声との三団ジョイコンの宣伝が載っておりました。会場は同志社大学寒梅館ハーディーホールにて。

会場はいつもは城陽プラムホールとなるはずでしたが、団員数減によるわが団の苦しい財政事情を他団が考えてくれてゲルさんの大学の施設を使うこととなったそうです。

このように現役は友団からも暖かい対応を受けております。

OBの皆さんもよろしくお願いいたします。今後とも少ない団員数で頑張っている現役たちを支援していきましょう!

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